いとぴょん安房守の雑感録

歴史・時事など気ままに書いています

頼朝の佐竹討伐戦は、上総広常の、広常による、広常のための戦い?①

治承4年10月、富士川の戦いで頼朝軍は平家・平維盛の軍に大勝した

 

さあ、これより維盛の軍を追って西上、上洛すべし。平家の軍兵恐るるに足らず。平家を倒すべし、我に続け!」頼朝が軍に向け号令をかけた。が、

お待ちくだされ。それがしはその号令には反対でござる」と公然と頼朝の号令に異を唱える声が上がった。声の主は上総広常であった。

東国はまだまだ安心できる状況ではございません。常陸の佐竹は同じ源氏の身でありながら、未だ佐殿に帰順しておらず。その背後には奥州が控え、関東を狙ってるやに…まずは東夷を平らげ、関東を盤石をすることが肝要かと」と進言した。これには千葉常胤、三浦義澄も賛同した。

この進言を受け頼朝は西上の留守の間に佐竹をはじめとする平家方に関東・鎌倉が攻められることを危惧し、平家追撃を取りやめ、佐竹討伐に方針を変更する。

 

広常の進言には、佐竹とは上総、千葉の房総勢力と所領をめぐる紛争で長年対立していたことが関係していた。この機に頼朝軍の力を以て、佐竹の勢力を駆逐し自領の安堵と、あわよくば佐竹を滅ぼし、その所領を得て勢力拡大を図りたいという思惑があったのである。

 

そんな思惑を知ってか、知らずか、頼朝は自ら軍を率いて、佐竹討伐の為常陸国国府(現茨城県石岡市)まで進軍した。

 

常陸佐竹氏は、この時の当主・隆義は平家の為に京に出仕中で、長子である義政と次男・秀義が国元の留守を預かっていた。

さすがは八幡太郎義家の弟新羅三郎義光からの名門、佐竹の権力信望は国中に満ち満ちており、頼朝の大軍を以てしても決して油断ならない敵であると思われた。

 

「佐竹をいかが攻略すべきか?」

軍議の場で「わが上総と佐竹とは縁があり、それがしに一計がございますれば、この二人の討伐、お任せいただければ…」と上総広常は進言する。

この進言は、「佐竹との戦いは広常自身の戦い、佐竹はわしが倒す」との強い思いから発せられたものであった。

広常は、佐竹の本拠である太田城(現茨城県常陸太田市)に向かった。

 

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写真:清音寺 佐竹義政首塚(左) 佐竹秀義のお墓

 

・・・続く

 

 

 

 

上総広常は、最初から佐殿の味方だった?

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』、上総広常(佐藤浩市)が本格始動!

 

予想通りの曲者っぷり。見事でした。

 

あの場面で、梶原景時を登場させるあたりは流石!と思いました。

景時、広常、義時そして義盛の四人がすでに一堂に会していた。

最期を意識した演出でしたね、まだ先のことですが…。

それにしても、上総広常の食えない田舎武士っぷり、いや~面倒くさい親父ですね。

小四郎には本音を漏らしていましたが、周囲に誤解を与えがちなタイプです。

 

タイトルの通り、味方なのかそれとも…と勿体付けた感じでしたが、私はハッキリと言います。

実は、多くの識者が論じているように、広常は頼朝の挙兵に呼応していました

すなわち、ドラマの最初から頼朝の味方でしたってことです。

 

広常はドラマの中で言っていました。房総中の情報はなんでも入ってくると…

頼朝が負けて安房に上陸してくることは、当然彼には筒抜けで、殺そうと思えばたどりついた浜辺で頼朝一行を待ち伏せ、殺害する、あるいは捕えて平家方に突き出すことくらいは訳ないことだっただろうし、

安房を出立時の頼朝軍は、寄せ集めの300騎、一方の上総広常は20000騎!という兵力差を考えれば、安房に侵入し長狭常伴と共同で頼朝を討ち取ることも可能だったでしょう。

こうした中、頼朝は上総の動向にはそれほど心配していません。

しかも、頼朝は広常の返事を待たずに、わずか300騎で安房を出立、上総を抜け下総に進軍しています。

もし広常と敵対していたとしたら上総領内の通過はできないでしょうし、まさに敵の中に飛び込んでいくようなもんです。

頼朝のこの見切った行動は、上総広常は敵ではない、味方だと認識していたに他ならないと思われます。

 

安房に上陸した頼朝は、味方を増やすべく各方面の豪族に使者を派遣しました。

甲斐武田氏には北条時政を、千葉氏には安達盛長を使者として派遣しました。

そして、上総広常には、最も味方に引き入れたい最重要勢力には、なんと、外交能力が一番劣る(と思われる)和田義盛(和田さん申し訳ない…)を派遣するのです。

ドラマでは北条小四郎も伴しておりますが、なんという人選ミス…

せめて房総の事情に明るい三浦義澄・義村あたりを派遣したかったかもしれませんが…長狭氏ような不穏な勢力からの守りには代えられない。

こうなったら和田義盛、頼む!!なんとか上総広常を説き伏せてきてくれってなるでしょうか?

普通はこういう選択はしませんよね

もっとも和田義盛が自らこの役を買って出た可能性もありますが…。

 

しかし、広常が味方するよとわかっていたらどうでしょうか?

その場合の外交はそれほど難しいやりとりの必要もないだろうし、ただ「よろしく!ま待ってるからね」と言うだけで事が済むと思えば、むしろ明るく能天気で暇そうな和田義盛(和田さん申し訳ない…)は適任。そう考えれば、外交使者の不可解な選択に合点がいきそうです。

 

広常としては、本当は石橋山の合戦に参加したかったのだが、天候の状況か、はたまた上総領内の平家方の動きの阻まれたのか、もちろん大軍の出陣準備の都合によるものか、結局参陣は大いに遅れ、隅田川付近で頼朝軍に合流することになってしまった。

石橋山、真鶴から海を渡って房総へ、さらに鋸山・房総丘陵を超え、東京ベイエリアをグルっと北上し隅田川あたりまでえんえん待たせりゃ、そりゃ、佐殿も単純に怒りますわな

 

個性派キャラが揃って、ドラマがますます楽しみになってきた今日この頃です。

 

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天に守られた男

『鎌倉殿の13人』第7回見ました。

 

房総編はあっという間に終わってしましましたが、平家方の長狭常伴が大河初登場し、安房出身の私にとっては感慨深かったですね。

ただ、常伴は頼朝に夜襲を仕掛けたものの寝取られ漁師とともに、三浦義村によってなんだかよくわからないままあっけなく鎮圧されてしまいました。

佐殿の女好きが功を奏したのか、寝取られ漁師のおかげ、亀が勝利の女神だったのか…佐殿の強運のおかげとドラマでは描かれていましたが、実際は房総で長狭氏と長年対立していた三浦氏の手柄でしょうね。三浦氏は房総に影響力を有し、おそらく豪族間の情報ネットワークがあったと思われます。ドラマの中でも新撰組副長を彷彿とさせる、抜け目のない手際の良さでした。

 

実は長狭氏の話はこれで終わりません。

頼朝が鎌倉入りした後の話になりますが、佐中太常澄という長狭常伴の家人だった人物が、長狭氏滅亡後敵方に付くことを良しとせず主の無念を晴らすために鶴岡八幡宮若宮宝殿の上棟式の際、頼朝を暗殺しようとする話が吾妻鑑に出てきます。

この時も暗殺は未然に防がれ、佐中太常澄は処刑されました。

その晩、頼朝の夢の中に一人の僧が現れ、暗殺されなかったのは若宮造営の功徳のあったおかげだと告げたらしく、頼朝はすぐに若宮に馬を奉納したという話があります。

 

やっぱり、信心深い頼朝は天に守られているんですね。

単なる強い、頭が良い、性格が良い、血筋が良い、位が高いだけでは不十分なんです。天を味方に付けてないと…人は付いていかないんですね

まあ、この話は神などくそくらえと寺社勢力を弾圧している平清盛との対比で書かれたのかもでしょうけど。

 

ドラマの中で「佐殿は天に守られています。現に命を救われています。佐殿は担ぐに足る人物です」と北条小四郎が上総広常に訴えるシーンがありました。

今回は単なるドタバタという感がありましたが、佐殿の強運っぷりがこれからどう描かれるのか…楽しみです。

 

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平重盛の墓が意外なところに…

小松寺【茨城県東茨城郡城里町上入野】
 平重盛は清盛の嫡男で小松内府と呼ばれ、1177年鹿ヶ谷の陰謀と呼ばれる平家に対するクーデター未遂事件に際し、後白河院を幽閉しようとする清盛を厳しく諫めたと言われています。
彼は、一族の長で父でもある清盛と院という二大権力者との対立の狭間にあって、そのストレスのせいか病に倒れ、平家滅亡前に若くして亡くなってしまいました。
 大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で幽閉された院が源頼朝の夢の中に登場し、彼を思い悩ませていますが、清盛が院を実際に幽閉したのは、重盛が亡くなってわずか4か月足らずのことでした。
 もし重盛が生きていれば、院は幽閉されることなく、当然頼朝の許に院宣が届くこともなく、頼朝の夢の中に登場することもなく、頼朝の挙兵もなかったかもしれません。
 重盛の腹心・平貞能は、高野山から重盛の遺骨を保持し重盛夫人得律禅尼を伴い、坂東平氏である常陸大掾義幹を頼って、この地に辿り着き、遺骨を埋葬しました。
寺の裏山を登ると重盛の宝篋印塔が建てられています。

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華やかな平家の一門であった重盛は、坂東の鄙びた山寺で静かに眠っています。

武田家のルーツ

甲斐源氏発祥の地・ひたちなか市武田】

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八幡太郎義家の弟・新羅三郎義光は、後三年の役後、常陸介に任ぜられ、長子である義業を久慈郡佐竹郷(現常陸太田市)に三男の義清を那賀郡武田郷(現ひたちなか市)に配置した。
義清は武田の地に因み「武田冠者」を名乗り、武田氏が誕生します。武田の名字のルーツは茨城県ひたちなか市にあったのです。
やがて、義清は長子清光とともに勢力拡大を図る中で行き過ぎた行為があったため、父子ともに甲斐に配流となってしまいます。
新天地の甲斐で在地勢力の支援を得ることができた義清は甲斐源氏発展の基盤を作ることに成功し、御存知戦国の名将・武田信玄が生まれるのは彼の17代後のことでした。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、甲斐源氏武田信義が登場しますが、彼は義清の孫に当たります。

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真珠湾攻撃から80年① 筑波海軍航空隊記念館企画展より

今年は寅年。トラトラトラの意味とは?
茨城県笠間市にある筑波海軍航空隊記念館では、真珠湾攻撃から80年~映画から見る戦争の始まり~」展が開催されており、真珠湾攻撃にまつわる資料や真珠湾攻撃を日米合作で描いた、1970年公開の映画『トラ・トラ・トラ!』の制作記録写真や制作秘話などが紹介されています。
映画の日本側制作では、木製の古い電信柱やベニヤ板で作った、実物大の模型・戦艦長門や空母赤城の飛行甲板が作られ、実際に零戦に似せた改造飛行機を飛ばして撮影されました。今ではCG技術を駆使した映像に慣れてしまっていますが、徹底した実物主義で作られており、また、何より、ハリウッド映画特有のプロパガンダ映画色が薄く、どちらかと言うと日本寄りの立場から描かれた映画に仕上がっています。

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米国の敗戦を描いていることから、興行的には失敗でした。たしかに真珠湾の爆撃シーンはリアルで、日の丸を付けた日本軍機の爆撃を受け逃げ惑う米兵目線で見たカットが目立ちます。アメリカ人は見ないでしょう。

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映画の題名にもなった「トラトラトラ」ですが、どんな意味があるのでしょうか?
公式には意味はないとも言われていますが、トは突撃せよ!のト、ラは雷撃隊のラを意味するとの説があります。つまり、トラは「突撃せよ!雷撃隊!」となり、「トラトラトラ」はその連送になるのです。
では、なぜ雷撃隊の突入が奇襲の成功を意味するのでしょうか?
米側に日本の攻撃を悟られずハワイの対空防衛が全くない、奇襲の場合、敵の対空砲火が激しくなる前に超低空で敵の懐に飛び込む必要のある雷撃機を先に突入させる、逆に米側の迎撃体制が整っている、強襲の場合は対空砲火制圧のため爆撃隊を優先させることが事前に決まっていました。したがって、雷撃隊の突入ということは奇襲と言うことになるのです。
実際「トラトラトラ」を打電した、「赤城」攻撃隊・飛行隊長の淵田美津雄中佐は寅年生まれの自分にとって縁起が最高だと喜び、勝利を確信したと言います。また、この発信は、三千浬離れた東京の大本営、広島の連合艦隊旗艦「長門」でも受信されました。このことに当時の航空機搭載の小型電信機の出力では無理だろうと思っていたが、千里往く虎、千里を帰ったのだろうと思ったとも後に述べています。
真珠湾攻撃での雷撃隊(指揮官・村田重治少佐)の活躍はすさまじく、九六式艦上攻撃機(好きだったな~小中学生の時ハセガワとタミヤのプラモを作りました)40機が参加し、艦船への魚雷命中は36発(米発表では28発?)と大活躍しました。
本作戦で、停泊中とはいえ海戦の主力である戦艦を航空魚雷2~3発で撃沈できることを証明しましたが、一方で800㎏にも及ぶ魚雷を抱いた鈍重な機体で、激しい対空砲火と戦闘機の攻撃をかいくぐり、超低空で敵艦の有効射線に入り雷撃するという戦いには高い技量と胆力が求められ、戦いの過酷さ、非情さは三度雷撃したら生き残れないと形容されました。米海軍もその例外でなく、大勝したミッドウェー海戦の時でさえも米空母「エンタープライズ」の雷撃隊は、確か全機、日本空母の直掩機に撃墜されています。
雷撃隊が雷撃を成功させ母艦に帰ってくる、すなわち千里往くトラ、千里を帰ることが、いかに大変であったか、雷撃隊員の勇気と強い使命感を感じずにはいられません
参考:「真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝」

武士の鑑・土屋家の城 ~茨城県土浦市~

土浦城(亀城公園)を訪問しました。

霞ヶ浦に注ぐ桜川河口の低地に築かれ、かつては何重にも巡らせた水堀で防御された平城で、現在では太鼓櫓が現存し東西の櫓が木造復元されています。関東で唯一本丸に現存する櫓門ということです。実に風格があります。

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本丸の土塁には土屋神社という小さな社が鎮座しています。

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土屋神社

祭神は土屋惣蔵昌恒、土屋忠直、土屋数直

土屋惣蔵昌恒は甲斐武田家家臣・土屋昌恒にあたり、武田家滅亡の際、主君・武田勝頼夫妻の自刃の時を稼ぐ為力戦奮闘して敵を食い止め討ち死にしたと伝えられています。多くの武田家家臣が離反する中、最期の最期まで主君を裏切らない忠節な戦いぶりは敵味方共に武士の鑑とされました。因みに昌恒の先代・土屋昌次長篠の戦いで戦死しています。土屋家は忠勇の家柄であったのです。
昌恒の遺児・平三郎は武田家滅亡に伴い、出家していましたが、徳川家康によって見出されます。「道中に思わず放り出せし快刀脇差なり。忠臣の種なれば随分に秘蔵し給え」と秀忠の近習とし、後に秀忠の秀の字を与え忠直と名を改め、上総久留里藩主となりました。
忠直の次男が数直で土浦土屋家の初代藩主となり、老中も務めました。土屋家は9万5千石を得、幕末まで存続し、徳川将軍家に忠義を尽くし、約200年にわたって土浦地方を治めたのです。

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