いとぴょん安房守の雑感録

歴史・時事など気ままに書いています

信長の野望DS2で語る戦国

信長の野望DS2、シナリオは1561年9月『飛躍の時』今川氏真を選択する。

 

桶狭間の戦いで偉大なる父・今川義元亡き後、三河は松平が独立、斜陽の今川家と思いきや、駿河遠江の国力、兵数はまずまずの状況。


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まあ腐っても名門!直ぐには転ばない。そして、何よりも武田、北条との三国同盟がまだ活きているのはありがたい。

駿河の兵を遠江に移動させ、三河の国力が整なわないうちに早々と松平(徳川)を潰すのが上策か。

 

ただね~今川家中には武に長けた武将がおりません。トップの氏真は論外ですが、大河ドラマでは服部党をバシバシ射殺していた鵜殿長照も微妙。


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これで強者揃いの三河衆に勝てるのか?

 

そんな中、頼りになりそうなのが岡部元信(戦闘75、足軽B)


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大河ドラマでも登場しましたね。瀬名姫ママを切るに切れない義に厚い武将でした。

事実、桶狭間で活躍し、主君義元の首級の受け取りを堂々と果たした、家中で一目置かれた武将でした。

ドラマでは人質交換の交渉に赴いた石川数正は岡部の義の厚さをしっかりと利用していました。

いずれにしても岡部元信は、今後のドラマでも遠江攻略の家康に立ち塞がるライバルとなるでしょう。

 

さて、ゲームに戻りますと、遠江の岡部と朝比奈康朝に今川全ての兵を振り分け、三河へ侵攻。

不忠裏切り者の三河の者どもを残らず討ち取るのじゃ!と威勢の良い氏真は戦闘値9なので、駿府でお留守番。

 

因みに瀬名姫パパの関口氏広(氏純)は存命、家中にスタンバっております。内政で使ってやるとしようかね。


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榊原の大事な跡取りの長男を養子に出す程の大須賀家とは?

善導寺(群馬県館林市楠町)

慶長11年に榊原康政が死去すると、三男の康勝が家督を継いだ。長男の忠政は外祖父の大須賀松平康高の養子となり、次男の忠長は早世していたからである。
榊原の大事な跡取りの長男を養子に出す程の大須賀家とは?

大須賀家は、一説に鎌倉幕府の功臣、千葉常胤の四男、大須賀四郎胤信の子孫とも言われている。
大須賀康高は、徳川家康に仕え、「康」の字を与えられ、後に松平姓を賜った。三河統一後の徳川家康遠江攻略の中心的役割を演じ、強敵甲斐武田氏との激戦地、遠江高天神城攻略の拠点、馬伏塚城、横須賀城の守将に任じられた。
本能寺の変後の甲斐信濃侵攻、小牧長久手の戦いでも先陣を務めている。

康高には嗣子が無く、長女が榊原康政に嫁ぎ、康高は康政の長男忠政を養子に迎えている。
榊原康政とは遠江攻略の際行動を共にすることが多かったと言われ、長男を養子にもらうということは養子元の榊原家より養子先の大須賀家の方がこの時は格上だったと思われる。

家康関東入国では大須賀忠政は、上総久留里3万石を賜り、関ヶ原後は遠江横須賀6万石に転封になった。

榊原家は康政の三男康勝が家督を継いだがわずか26才で死去したため、無嗣廃絶の可能性があった。
榊原家の断絶を危惧した家康は、忠政の長男忠次に大須賀家を継ぐか、榊原家に戻るか希望を聞いたという。結局忠次が榊原家に戻り、逆に大須賀家は世嗣廃絶、家中は榊原家に吸収される形となった。
家康には榊原家を残す考えが最初からあったのかもしれない。

徳川家臣団の中で戦で大いに活躍した割に知名度がイマイチなのは、家が残らなかったからであろうか。大河ドラマでも出ないでしょうね。

榊原康政墓所善導寺には大須賀忠政、榊原康勝の兄弟の五輪塔がある。


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館林城御城印 榊原康政バージョン入手  

 


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榊原康政は「徳川四天王」の一人として有名だが、徳川家臣団において、榊原家は比較的新参の家系で全く目立たない家柄であった。康政自身も次男坊であり、酒井忠尚の小姓、陪臣の身分でしかなかった。

13才で家康に召し出され、初陣では元服前にも関わらず、家康から「康」の字を与えられるほどの大手柄を立てた。以後、旗本の「一之手衆」に抜擢され、徳川の主要な戦に参加、活躍し続けた。


家康関東入国では、上野館林10万石を得、石高では井伊直政(上野箕輪12万石)に次ぎ、本多忠勝(上総大多喜10万石)と並んで徳川家臣団の三傑に位置付けられた。榊原家は康政個人の才覚、力量で一代で大出世した家柄であったのである。

 

家康の絶大な信頼を得た康政は、秀忠付けになるが、関ヶ原の戦いでは秀忠と東山道を上るも信濃上田城攻めに手こずり、決戦に遅参という大失態を演じた。康政は秀忠を庇って激怒した家康との間を取りなしたと言う。

 

康政の旗差物には、「無」の文字が描かれ旗印としていたというが、失う物も何も無い身分の低い「無」の状態からただ無心に私心無く忠実に家康に仕え続ける生き方を示しているように思える。

 

館林の基礎を作った康政の墓所は、館林市善導寺にある。
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岩瀬与一太郎は、なぜ頼朝に許されたか?(その1)

治承4年11月7日、上総広常の謀略、奇襲により金砂城は落城、佐竹秀義は花園城に敗走した。頼朝の佐竹討伐戦は一段落した。

翌8日、鎌倉軍は常陸国府に凱旋、佐竹領の収公が決定される。

そして、佐竹の家人十余名が捕えられ、頼朝に尋問された。

頼朝は捕えられた者の中にひどく啼泣している家人が気になり、和田義盛に尋問させた。

和田「そこの者、なぜ泣いておる?」

家人「佐竹の御殿亡き今はこの首をつないでも仕方なき事…」

和田「そうまで思うなら、なぜ主の危機に命を捨てなかった?」

家人「主の後を追って自害も考えたが、あえて捕えられ生き恥を晒してまでも、拝謁し一言なりと申すべしと存じ…」

和田「この下郎、無礼であるぞ、控えろ!」と義盛は家人を抑えつけたが、

「構わぬ、その一言とやら申してみろ」とこのやり取りを遠目から見ていた頼朝が促した。

家人「我、常陸介佐竹義政が家人、岩瀬与一太郎と申す。源家の御大将ともあろう貴殿が、平氏追討を差し置いて、なぜ同じ一族を滅されるのか?今は、皆、合力して大事を果たすべき時。罪なき者を卑怯なだまし討ちをし、力をもって人を恐れさせるだけでは、真実の忠誠心は得られず。これから誰が貴殿の子孫を守りましょうや?こんなことでは後世の笑い草になりましょうぞ!」

彼は、大矢橋で上総広常に謀殺された佐竹義政の家人で、恥を忍んで命を懸け頼朝に諫言したのである。

頼朝は一言も発せずその場を離れた。

上総広常は「先ほどの男、叛意があることは明白、即刻首をはねるべきです」と頼朝に進言した。

しかし、広常の進言を断り「かの者が申す事、正論である」と彼を許したばかりか、御家人に一員に加え、佐竹討伐の中止をも決めた。

この吾妻鑑にあるエピソードは、岩瀬の命がけの諫言より佐竹を救った、岩瀬の主君を思う心、頼朝は岩瀬の言葉に心を打たれ、自分の過ちを悟った。やっぱり一族どうしの潰しあいにためらいがあった、頼朝は非情だけの男でない、温情もあったんだという一種の美談として引用されることがある。

 

しかし、その後の頼朝の行動は、一族を容赦なくつぶしていく。事情は個々に違うとはいえ岩瀬の諫言と真逆の行動である。本当に、岩瀬の諫言は頼朝に響いていたのか?

岩瀬は敵将の家人に身分であり、頼朝がまともに聞いていたとも思えない。となると、岩瀬を許したのには、何かほかに政治的な理由があるのでは?と思われる。

頼朝が、岩瀬与一太郎を許した理由は何か?次回、憶測、推測大妄想したい(続く)

 

参考:竹宮恵子 マンガ日本の古典 吾妻鑑 上

   木村茂光 「頼朝と街道 鎌倉政権の東国支配」

岩瀬与一太郎は、なぜ頼朝に許されたか?(その2)

岩瀬与一太郎御家人に取り立てた理由とは?

頼朝が東国支配を強化し常陸の支配をするうえで岩瀬に利用価値があると思ったのだろう。彼は出身地が常陸国西部(現在の桜川市岩瀬)と言われ、常陸北部太田から笠間、小山に至るルート上にあり、下野国方面への要衝の地でもある。

治承4年11月8日、岩瀬尋問の日に、頼朝は鎌倉へ向け出発しているが、その夜は岩瀬の出身地の近隣にある、小栗重成の小栗御厨の八田館に泊まった。

鎌倉への帰途としては全く違う方向であり、筑波山の北側を通り遠回りして小栗御厨にわざわざ寄っている、現代のJRの路線ルートで考えると水戸から鎌倉に行くのに常磐線で帰らず、わざわざ水戸線を使っているというイメージである。

これは、明らかに視察かなにかだろう。小山、下野方面を意識した戦略がうかがえ、その辺りの事情に明るいと思われる岩瀬を登用したという理由になっている。

 

しかし、岩瀬の出身地は諸説あって、その場所は常陸大宮市の下岩瀬、上岩瀬が有力という。岩瀬氏の館跡があって、堀や土塁もある。また近くには春日神社という昔岩瀬大明神と呼ばれた岩瀬与一太郎ゆかりの神社が鎮座している。

岩瀬の出身地が小栗御厨近くの桜川市岩瀬ではないとなると、先ほどの説は、頼朝は下野、小山方面への関心はあったが、岩瀬自体の利用価値としての説得力は持たなくなる。

 

そこで私が愚考したのは、源頼朝と上総広常の関係性についてである。

常陸討伐戦では、頼朝は上総広常の手段を選ばずのイケイケの進言を終始採用していたのが、なぜか今回の進言は却下されてしまった。頼朝は広常の意見を容れて自ら出陣するくらいヤル気だったのに佐竹攻略を止めてしまった。

なんで頼朝、変わっちゃったの?

「上総広常、あいつやばいな、ちょっと距離置こう」ってなったから。

頼朝の広常に対しての「佐竹義政を謀殺した、手段を選ばない危険で汚いワル」との警戒心、「佐殿は上総介の意ばかりを汲む」との周囲からのひがみ声を考慮した結果、広常を単純に受け入れられなくなっただけなのかもしれないと。

 

本当はシャイなだけ、味方になれば頼りになる、いい奴なんですよ

大河ドラマで存在感ありありの上総広常を見て思う今日この頃です。(終わり)

 

参考:木村茂光「頼朝と街道 鎌倉政権の東国支配」

 

頼朝の佐竹討伐戦は、上総広常の、広常による、広常のための戦い?③

800年前の佐竹氏が存亡をかけて戦った西金砂山(現在の茨城県常陸太田市)に登る。

麓からは車道が現在では通っているが、当時は獣道と呼べる道すらなかっただろう。

西金砂神社の本殿が鎮座している山頂付近へは途中急な石段を登る。

それだけで息が上がる。

まるで攻め手の頼朝軍になったようだが、上から矢・石が飛んでこないだけマシだろうと自分に言い聞かせながら登る。

山頂付近から奥久慈の起伏に富んだ山並みを眺めていると、崖下は当時と変わらない風景のように思えてきた。

 

さて、上総広常の進言。

秀義の叔父に佐竹義季という人物がおり、智謀は優れているのだが強欲の男でもある。こちらから過分な恩賞を約束すればそれに目がくらみ、我が方に内応するであろう」

事前に配下の者に敵方の情報を入念に調べさせていたのだろう、さすがは坂東一の情報通である。居並ぶ諸将たちは声も出なかった。

 

早速、広常は西金砂山の義季の陣に飛んだ。

広常の話を聞いた義季は、広常の予想通り恩賞に眼が眩み、内応を約束、さらに秀義の本陣までの間道の道案内まで申し出た

広常は自らの手勢を率い、城裏手の間道から蔓や草木につかまりながら崖をよじ登り山頂にある本陣に辿り着き、秀義の本陣に奇襲を仕掛け落城のきっかけを作ったのであった。

一方の秀義は家人たちに守られながら何とか西金砂山から撤退、奥地の花園山(現茨城県北茨城市)まで何とか逃れることができた。

秀義の命はかろうじて助かったものの佐竹の所領・常陸奥七郡はほとんど全て失い。厳しい雌伏の時代を迎えることになる。

 

秀義を裏切った義季には戦後恩賞が約されていたが、結局反故にされた

おそらく、広常は義季との交渉を有利に進めるため頼朝に無断で過大な恩賞を提示したのだろう、戦後義季に詰め寄られてもそんな約束はしていないなどと平然とすっとぼけたのだろうと思われる。

 

西金砂山の戦いは、広常の調略によって勝利を収めたのだが、最初から強攻策でなく調略策を取っていれば、頼朝軍の損害は少なかっただろう。もっと早くに広常が進言していれば…

このあたりの広常の進言のタイミングは、もしかしたら自分をより高く売るための「社内政治」だったと言えるのかもしれない。

 

上総広常によって始まり、広常によって終わったと言っていい佐竹討伐戦は、広常の陰謀力の高さを証明し、周囲の警戒感を生んだ。今後の彼の人生を決めてしまった戦いでだったと言えると思う。(終わり)

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頼朝の佐竹討伐戦は、上総広常の、広常による、広常のための戦い?②

高速道路常磐道石岡小美玉スマートICのほど近い、大矢橋

現在では新大矢橋という新しい橋が架かっているが、そのそばに佐竹義政の首塚がある。

説明板には、治承4年11月、上総広常による帰順勧告に応じた佐竹義政は、頼朝との会見に向かったが、この園部川にかかる大矢橋で上総広常に謀殺されたと記載されている…。

このようなだまし討ちが広常の一計であったのか?

 

太田城に着いた広常は長子・義政を説得した。

「佐殿は寛大な御方、今までのいきさつは水に流す。常陸介殿(佐竹)とは戦いたくはない」

義政は、この時代の人としては「超いい人」だった。広常の言を疑うことなく信じた。

とりあえず無益な戦を避けることができるのならと帰順要請を受けいれて頼朝の許に参上することに合意したのだが、広常によっておびき出された形となり惨殺されてしまったのである。

こうしたエグイやり方をする上総広常の思考としては、勝つためだったら手段を選ばないという思考。汚れ仕事もなんとも思わない。

ただ、こうした思考は源義経然りで何となく周り鎌倉武士たちから受け入れられない…北条義時はいろいろ学んでいくんでしょうなぁ~…あっとちょっと話が大河ドラマに行きました。

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広常の非情な策は、結果的には佐竹側に少なからぬ動揺を与えていた。

義政の配下の主だった将は大矢橋で広常に討たれるか、捕えられ、配下の兵たちも頼朝軍に降伏、逃亡する者が増えてきたのである。

こうした状況を受け、弟の秀義は、太田城は防衛に不向きと考え太田城を放棄、奥地の山岳・西金砂山に籠ることを決め、城壁を固め、要害を築き、頼朝軍との徹底抗戦の構えを見せたのである。

 

一方、頼朝は、西金砂山に下河辺行平、土肥実平和田義盛など数千の精鋭を派遣し、佐竹掃討を命じた。

 

西金砂山は要害険阻であった。

佐竹秀義は数千の頼朝軍を相手に山岳ゲリラ戦を展開し、一歩も引かない。

逆に攻め手の頼朝軍は、山頂から雨あられと降りそそぐ矢・石に打たれ苦戦を強いられ、狭小絶壁の道なき道に進退ならず、放つ矢も高所の敵には届かず、空しく矢をつがえて機を待つばかりであったという。

佐竹が構える砦は一人で千人分の働きを持っている」とは、土肥実平の頼朝への戦況報告である。

 

強攻以外の策を講じなければならない

早速軍議が開かれた。

重々しい雰囲気に包まれていたが、その空気を打ち破ったのは、またもや上総広常の進言であった。

広常のあらたな一手とは?(続く)

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