岩瀬与一太郎は、なぜ頼朝に許されたか?(その2)
頼朝が東国支配を強化し常陸の支配をするうえで岩瀬に利用価値があると思ったのだろう。彼は出身地が常陸国西部(現在の桜川市岩瀬)と言われ、常陸北部太田から笠間、小山に至るルート上にあり、下野国方面への要衝の地でもある。
治承4年11月8日、岩瀬尋問の日に、頼朝は鎌倉へ向け出発しているが、その夜は岩瀬の出身地の近隣にある、小栗重成の小栗御厨の八田館に泊まった。
鎌倉への帰途としては全く違う方向であり、筑波山の北側を通り遠回りして小栗御厨にわざわざ寄っている、現代のJRの路線ルートで考えると水戸から鎌倉に行くのに常磐線で帰らず、わざわざ水戸線を使っているというイメージである。
これは、明らかに視察かなにかだろう。小山、下野方面を意識した戦略がうかがえ、その辺りの事情に明るいと思われる岩瀬を登用したという理由になっている。
しかし、岩瀬の出身地は諸説あって、その場所は常陸大宮市の下岩瀬、上岩瀬が有力という。岩瀬氏の館跡があって、堀や土塁もある。また近くには春日神社という昔岩瀬大明神と呼ばれた岩瀬与一太郎ゆかりの神社が鎮座している。
岩瀬の出身地が小栗御厨近くの桜川市岩瀬ではないとなると、先ほどの説は、頼朝は下野、小山方面への関心はあったが、岩瀬自体の利用価値としての説得力は持たなくなる。
そこで私が愚考したのは、源頼朝と上総広常の関係性についてである。
常陸討伐戦では、頼朝は上総広常の手段を選ばずのイケイケの進言を終始採用していたのが、なぜか今回の進言は却下されてしまった。頼朝は広常の意見を容れて自ら出陣するくらいヤル気だったのに佐竹攻略を止めてしまった。
なんで頼朝、変わっちゃったの?
「上総広常、あいつやばいな、ちょっと距離置こう」ってなったから。
頼朝の広常に対しての「佐竹義政を謀殺した、手段を選ばない危険で汚いワル」との警戒心、「佐殿は上総介の意ばかりを汲む」との周囲からのひがみ声を考慮した結果、広常を単純に受け入れられなくなっただけなのかもしれないと。
本当はシャイなだけ、味方になれば頼りになる、いい奴なんですよ
大河ドラマで存在感ありありの上総広常を見て思う今日この頃です。(終わり)
参考:木村茂光「頼朝と街道 鎌倉政権の東国支配」