いとぴょん安房守の雑感録

歴史・時事など気ままに書いています

岩瀬与一太郎は、なぜ頼朝に許されたか?(その1)

治承4年11月7日、上総広常の謀略、奇襲により金砂城は落城、佐竹秀義は花園城に敗走した。頼朝の佐竹討伐戦は一段落した。

翌8日、鎌倉軍は常陸国府に凱旋、佐竹領の収公が決定される。

そして、佐竹の家人十余名が捕えられ、頼朝に尋問された。

頼朝は捕えられた者の中にひどく啼泣している家人が気になり、和田義盛に尋問させた。

和田「そこの者、なぜ泣いておる?」

家人「佐竹の御殿亡き今はこの首をつないでも仕方なき事…」

和田「そうまで思うなら、なぜ主の危機に命を捨てなかった?」

家人「主の後を追って自害も考えたが、あえて捕えられ生き恥を晒してまでも、拝謁し一言なりと申すべしと存じ…」

和田「この下郎、無礼であるぞ、控えろ!」と義盛は家人を抑えつけたが、

「構わぬ、その一言とやら申してみろ」とこのやり取りを遠目から見ていた頼朝が促した。

家人「我、常陸介佐竹義政が家人、岩瀬与一太郎と申す。源家の御大将ともあろう貴殿が、平氏追討を差し置いて、なぜ同じ一族を滅されるのか?今は、皆、合力して大事を果たすべき時。罪なき者を卑怯なだまし討ちをし、力をもって人を恐れさせるだけでは、真実の忠誠心は得られず。これから誰が貴殿の子孫を守りましょうや?こんなことでは後世の笑い草になりましょうぞ!」

彼は、大矢橋で上総広常に謀殺された佐竹義政の家人で、恥を忍んで命を懸け頼朝に諫言したのである。

頼朝は一言も発せずその場を離れた。

上総広常は「先ほどの男、叛意があることは明白、即刻首をはねるべきです」と頼朝に進言した。

しかし、広常の進言を断り「かの者が申す事、正論である」と彼を許したばかりか、御家人に一員に加え、佐竹討伐の中止をも決めた。

この吾妻鑑にあるエピソードは、岩瀬の命がけの諫言より佐竹を救った、岩瀬の主君を思う心、頼朝は岩瀬の言葉に心を打たれ、自分の過ちを悟った。やっぱり一族どうしの潰しあいにためらいがあった、頼朝は非情だけの男でない、温情もあったんだという一種の美談として引用されることがある。

 

しかし、その後の頼朝の行動は、一族を容赦なくつぶしていく。事情は個々に違うとはいえ岩瀬の諫言と真逆の行動である。本当に、岩瀬の諫言は頼朝に響いていたのか?

岩瀬は敵将の家人に身分であり、頼朝がまともに聞いていたとも思えない。となると、岩瀬を許したのには、何かほかに政治的な理由があるのでは?と思われる。

頼朝が、岩瀬与一太郎を許した理由は何か?次回、憶測、推測大妄想したい(続く)

 

参考:竹宮恵子 マンガ日本の古典 吾妻鑑 上

   木村茂光 「頼朝と街道 鎌倉政権の東国支配」