いとぴょん安房守の雑感録

歴史・時事など気ままに書いています

信長の野望DS2で語る戦国

信長の野望DS2、シナリオは1561年9月『飛躍の時』今川氏真を選択する。 桶狭間の戦いで偉大なる父・今川義元亡き後、三河は松平が独立、斜陽の今川家と思いきや、駿河、遠江の国力、兵数はまずまずの状況。 まあ腐っても名門!直ぐには転ばない。そして、何…

榊原の大事な跡取りの長男を養子に出す程の大須賀家とは?

善導寺(群馬県館林市楠町) 慶長11年に榊原康政が死去すると、三男の康勝が家督を継いだ。長男の忠政は外祖父の大須賀松平康高の養子となり、次男の忠長は早世していたからである。榊原の大事な跡取りの長男を養子に出す程の大須賀家とは? 大須賀家は、一説…

館林城御城印 榊原康政バージョン入手  

榊原康政は「徳川四天王」の一人として有名だが、徳川家臣団において、榊原家は比較的新参の家系で全く目立たない家柄であった。康政自身も次男坊であり、酒井忠尚の小姓、陪臣の身分でしかなかった。 13才で家康に召し出され、初陣では元服前にも関わらず、家…

岩瀬与一太郎は、なぜ頼朝に許されたか?(その1)

治承4年11月7日、上総広常の謀略、奇襲により金砂城は落城、佐竹秀義は花園城に敗走した。頼朝の佐竹討伐戦は一段落した。 翌8日、鎌倉軍は常陸国府に凱旋、佐竹領の収公が決定される。 そして、佐竹の家人十余名が捕えられ、頼朝に尋問された。 頼朝は捕え…

岩瀬与一太郎は、なぜ頼朝に許されたか?(その2)

岩瀬与一太郎の御家人に取り立てた理由とは? 頼朝が東国支配を強化し常陸の支配をするうえで岩瀬に利用価値があると思ったのだろう。彼は出身地が常陸国西部(現在の桜川市岩瀬)と言われ、常陸北部太田から笠間、小山に至るルート上にあり、下野国方面への…

頼朝の佐竹討伐戦は、上総広常の、広常による、広常のための戦い?③

800年前の佐竹氏が存亡をかけて戦った西金砂山(現在の茨城県常陸太田市)に登る。 麓からは車道が現在では通っているが、当時は獣道と呼べる道すらなかっただろう。 西金砂神社の本殿が鎮座している山頂付近へは途中急な石段を登る。 それだけで息が上がる。 …

頼朝の佐竹討伐戦は、上総広常の、広常による、広常のための戦い?②

高速道路常磐道石岡小美玉スマートICのほど近い、大矢橋。 現在では新大矢橋という新しい橋が架かっているが、そのそばに佐竹義政の首塚がある。 説明板には、治承4年11月、上総広常による帰順勧告に応じた佐竹義政は、頼朝との会見に向かったが、この園部川…

頼朝の佐竹討伐戦は、上総広常の、広常による、広常のための戦い?①

治承4年10月、富士川の戦いで頼朝軍は平家・平維盛の軍に大勝した。 「さあ、これより維盛の軍を追って西上、上洛すべし。平家の軍兵恐るるに足らず。平家を倒すべし、我に続け!」頼朝が軍に向け号令をかけた。が、 「お待ちくだされ。それがしはその号令に…

上総広常は、最初から佐殿の味方だった?

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』、上総広常(佐藤浩市)が本格始動! 予想通りの曲者っぷり。見事でした。 あの場面で、梶原景時を登場させるあたりは流石!と思いました。 景時、広常、義時そして義盛の四人がすでに一堂に会していた。 最期を意識した演出でし…

天に守られた男

『鎌倉殿の13人』第7回見ました。 房総編はあっという間に終わってしましましたが、平家方の長狭常伴が大河初登場し、安房出身の私にとっては感慨深かったですね。 ただ、常伴は頼朝に夜襲を仕掛けたものの寝取られ漁師とともに、三浦義村によってなんだかよ…

平重盛の墓が意外なところに…

小松寺【茨城県東茨城郡城里町上入野】 平重盛は清盛の嫡男で小松内府と呼ばれ、1177年鹿ヶ谷の陰謀と呼ばれる平家に対するクーデター未遂事件に際し、後白河院を幽閉しようとする清盛を厳しく諫めたと言われています。 彼は、一族の長で父でもある清盛と院…

武田家のルーツ

【甲斐源氏発祥の地・ひたちなか市武田】 八幡太郎義家の弟・新羅三郎義光は、後三年の役後、常陸介に任ぜられ、長子である義業を久慈郡佐竹郷(現常陸太田市)に三男の義清を那賀郡武田郷(現ひたちなか市)に配置した。 義清は武田の地に因み「武田冠者」を名…

真珠湾攻撃から80年① 筑波海軍航空隊記念館企画展より

今年は寅年。トラトラトラの意味とは? 茨城県笠間市にある筑波海軍航空隊記念館では、「真珠湾攻撃から80年~映画から見る戦争の始まり~」展が開催されており、真珠湾攻撃にまつわる資料や真珠湾攻撃を日米合作で描いた、1970年公開の映画『トラ・トラ・ト…

武士の鑑・土屋家の城 ~茨城県土浦市~

土浦城(亀城公園)を訪問しました。 霞ヶ浦に注ぐ桜川河口の低地に築かれ、かつては何重にも巡らせた水堀で防御された平城で、現在では太鼓櫓が現存し東西の櫓が木造復元されています。関東で唯一本丸に現存する櫓門ということです。実に風格があります。 …

オダはオダでも… 茨城県つくば市

皆さんは戦国武将で「オダ」といえば、誰を思い起こすでしょうか? おそらく多くの方は「織田信長」を思い起こすでしょう。しかし、茨城の人間にとってはオダといえば。小田氏治を思い起こすだろうと思います(諸説あります笑) 小田氏は常陸南部に勢力を持っ…

源頼朝 安房で再起を図る2 千葉県鴨川市

治承四年九月三日、平家方で安房国長狭郡を治める長狭常伴が頼朝の宿屋を襲撃しました。しかし、三浦義澄が常伴を一戦場(いっせんば 現千葉県鴨川市)で迎え撃って勝利を収め、これで安房で頼朝の抵抗する勢力はいなくなりました。 この戦いで、地元の漁師・…

源頼朝 安房で再起を図る1 千葉県安房郡鋸南町

治承四年八月、伊豆で挙兵した源頼朝は、二十三日、平家方の大庭景親との石橋山の戦いで敗れ、真鶴岬より海路小舟で脱出、安房国へと向かいました。 なぜ安房を目指したのか? 当時内房沿岸は対岸三浦半島の三浦氏の影響が強く源氏の味方を得られやすかった …

佐竹義堯公の決断 秋田戊辰戦争 秋田県秋田市

久保田城本丸に久保田藩最後の藩主・第12代佐竹義堯公銅像が立っている。 第12代藩主・佐竹義堯公銅像 彼は、幕末の戊辰戦争で奥羽越列藩同盟を離脱し新政府側に付くことを決断した。 このことは、会津、庄内など多くの東北諸藩にとっては裏切りとして認識さ…

水戸・祇園寺を攻めた 【諸生党・市川三左衛門の論理】

こんにちは。安房守です。 今回は、ホームの水戸、祇園寺を攻めました。 祇園寺 水戸市 ここのお寺には、天狗党と対立した諸生党の殉難碑と諸生党を率いた水戸藩執政・市川三左衛門弘美の墓所があります。 5月30日放送の大河ドラマ「青天を衝け」で市川三左…

志筑を攻めた【伊東甲子太郎の故郷】

今回、志筑(しづく 茨城県かすみがうら市)を攻めました。 鎌倉時代、源頼朝の近臣の一人・下河辺正義が志筑城を築城。 江戸時代には出羽本堂より移封した本堂氏の陣屋となりました。 その後、陣屋跡は小学校となっておりましたが、小学校移転で校庭だった…

宍戸を攻めた 【宍戸藩の悲劇】

今回は、茨城県笠間市の宍戸を攻めました。 宍戸藩は、徳川光圀の弟に水戸藩領を分与され立藩された、石高一万石の小藩です。水戸藩の御連枝として、藩政のほとんどは水戸藩に依存していましたが、れっきとした藩として存続していました。 実は、宍戸藩は幕…

那珂湊、大洗を攻めた 水戸藩版お台場

水戸市の北、那珂川を挟んでひたちなか市があります。また、水戸市の東には大洗町があります。 それぞれ、ひたちなか市は国立ひたちなか海浜公園のネモフィラ、大洗町はガルパン、大洗水族館が有名です。GWの旅行先としては、これらの観光スポットが定番で…

野州・栃木を攻めた2

大中寺からは栃木市の市街地へ向かうことにします。 定願寺に着きました。 ここは、幕末の天狗党の乱で天狗党の幹部・藤田小四郎の宿営地として使われたお寺といわれています。 おそらく間違いはないとおもいますが、何か説明板があるかと境内を探しましたが…

野州・栃木を攻めた1

5月6日、7日の2日間有給休暇を取得させていただいた小生にとりましては、本日(5月9日)はGW最終日。どこか行こうにも、コロナのご時世で…。あまり人出の少ない近場をさくっとドライブし、「歴スポ」を数カ所攻略しようと栃木に決定。 「栃木(県)のどこ?…

天狗党決起② ~筑波山神社(茨城県つくば市)~

鈴の宮稲荷神社の神前で祈願の後、霊峰・筑波山の麓に尊王攘夷の義旗が翻りました。 早速、各地から、浪士、農民、神官、博徒など天狗党の決起に呼応する様々な者たちが集結し、その数は数百に達したいいます。 筑波山神社拝殿 なぜ、これほどまでに天狗党の…

天狗党決起① ~鈴の宮稲荷神社(茨城県石岡市)~

元治元年(1864年)3月27日、水戸藩尊攘派が挙兵します。世に言うところの天狗党の乱です。同志63名が府中(石岡)新地金丸町の鈴の宮稲荷神社に集合します。JR石岡駅の西口を出て、金丸通り沿いに鈴の宮稲荷神社がありました。 鈴の森稲荷神社 この挙兵の首謀者…