水戸・祇園寺を攻めた 【諸生党・市川三左衛門の論理】
こんにちは。安房守です。
今回は、ホームの水戸、祇園寺を攻めました。
ここのお寺には、天狗党と対立した諸生党の殉難碑と諸生党を率いた水戸藩執政・市川三左衛門弘美の墓所があります。
5月30日放送の大河ドラマ「青天を衝け」で市川三左衛門は登場しましたね。
市川三左衛門弘美…水戸藩史において二大奸臣のひとりとして挙げられるほどの悪名高い人物と言われています。
しかし、この評価は、明治の新政府の世になって、「勝てば官軍、負ければ賊軍」、尊王の天狗党は官軍、佐幕の諸生党は賊軍という史観を通したものなので割り引いてみなければいけませんが…。
ドラマでもありましたように、天狗党が決起すると市川は争乱の鎮圧に乗り出します。
尊攘激派を次々に捕縛、投獄、処刑し、国元水戸の藩政を掌握します。
そして、諸生党は天狗党の家族をも投獄、虐待し始めます。
水戸の家族は無事なのか?
天狗党に大きな動揺が走ります。
軍議の結果、諸生党討伐の為水戸を目指すことに決定します。
これは、天狗党の横浜鎖港という尊王攘夷の大義を失わせ、水戸藩内の派閥抗争の意味合いを強くしていくことを意味します。
すなわち、天狗党の尊皇攘夷の大義に共鳴した、他藩から参加した尊攘派浪士たち、海外通商の煽りを食って困窮した農民たちの天狗党に対する支持を無くしていくことになるのです。
そこまで計算して家族への虐待と意図していたとしたら、市川はワルはワルでも相当のもんです。
市川の天狗党に対する厳しい姿勢は、藩内で長年続いた、上級藩士中心の佐幕の諸生と中・下級藩士中心の尊王の天狗との対立が背景にあったと思われます。
「役人になれば鰻が食えるが、役人にならなければ鰻の串を削らなければならない」と当時言われていた水戸藩にあって、今回の天狗鎮圧は徳川斉昭藩主就任以来長年「串を削っていた」諸生派の逆襲でした。
市川にとっては、過激な尊攘派はできもしない攘夷の空念仏を唱え、ひたすらに徳川親藩・水戸藩の存在を危うくするだけの不忠の輩にすぎない。
しかも、彼らは攘夷の名を借りて献金を略奪・暴行・放火を繰り返し暴れまわっている。
許すわけにはいかない。
このように考えれば、市川の論理も納得できる部分はありそうです。
戊辰戦争で逆賊となった市川に率いられた諸生党(市川勢)は水戸を出て、越後、会津を転戦し新政府軍と戦い抜きます。
最後は、市川は水戸藩吏に捕縛され、最も残酷な刑と言われる逆さ磔に処せられました。
処刑前の最後の食事に「鰻飯」を希望したと言われています。
【辞世の句】君がため 捨つる命は惜しまねど 忠が不忠になるぞ悲しき