いとぴょん安房守の雑感録

歴史・時事など気ままに書いています

宍戸を攻めた 【宍戸藩の悲劇】

今回は、茨城県笠間市の宍戸を攻めました。

宍戸藩は徳川光圀の弟に水戸藩領を分与され立藩された、石高一万石の小藩です。水戸藩の御連枝として、藩政のほとんどは水戸藩に依存していましたが、れっきとした藩として存続していました。


実は、宍戸藩は幕末の天狗党の乱で、全く予期せず最悪のとばっちりを受けたような形で藩主切腹、改易という処分を受けてしまった藩なんです。

藩主が切腹で改易という処分、尋常な沙汰ではありません。江戸時代の長い歴史の中で、300もの大名家があった中で、ほとんど例がないのではないでしょうか?

 

一体、宍戸藩に何が起こったのでしょうか?

 

現在、陣屋の跡がありますが、土塁ばかりを残すのみでほとんど遺構は残っていません。

f:id:itopyonawanokami:20210515094931j:plain

 

立派な表門が少し離れた民家に移築されています。
重厚な門構えですね。

 

f:id:itopyonawanokami:20210515095047j:plain
f:id:itopyonawanokami:20210515095121j:plain

 

1864年天狗党が決起すると、天狗党と対立派閥であった、水戸藩家老・市川三左衛門率いる諸生党(市川勢)天狗党鎮圧に乗り出した幕府の権威を背景に国元の水戸藩政の実権を掌握し、天狗党を徹底弾圧し始めます。

何とか水戸藩内々で事態を収束したい水戸藩主・徳川慶篤は自分の名代として宍戸藩主・松平頼徳を水戸に派遣、鎮撫を命じます。
宍戸藩は石高一万石の小藩、直属の軍は貧弱なので水戸藩尊攘派で穏健な鎮派の軍1000名を付け、水戸を下向させました。
下向の道中、武田耕雲斎の一派、市川勢に不満を持つ農兵などが合流し3000名の大集団(大発勢)になりました。

大軍勢を率いる形となった松平頼徳は水戸城に到着し、城に籠る市川勢に自らは水戸藩主の名代で鎮撫に来た旨を伝え、水戸城の入城許可を求めます。

 

f:id:itopyonawanokami:20210515095417j:plain

水戸城 大手門(復元)

 

しかし、市川は尊攘派の軍勢が加わっている大発勢にせっかく掌握した水戸藩政の実権を奪われてしまうのではないかと危惧し、入城を拒絶、押問答の末、大発勢へ発砲を命じました
大発勢は応戦しますが、兵糧不足もあり、一旦那珂湊に退きました。

 

大発勢は、市川勢排除のため、武田耕雲斎の一派、筑波山で決起した天狗党(筑波勢)と連携し、市川勢との戦闘が行われますが、幕軍の支援を受けた市川勢に押され次第に劣勢になっていきます。
このままでは、頼徳は、名代としての役割を果たしえないばかりか、暴徒認定されている筑波勢と結託し幕軍の支援をうけた市川勢を攻撃することは、幕府に反逆した筑波勢と同類と見なされてしまう。

 

やがて、幕軍から使者が来て、幕府へ直訴の機会を作る用意があると松平頼徳に伝えてきました。
頼徳は、「これは奸計だ」と主張する周囲の反対を押し切り、この申し出に応じます。


市川勢に対しては弓を引いたが、幕府に対しては敵対行動を取っていない、そして停戦の意思を示し、あくまでも鎮撫の任務を果たすことを誠心誠意訴えるため、自らの忠義、潔白を信じていた頼徳は、何の疑いもなく幕府本営に少数の家臣共に赴きました。

 

しかし、この申し出は頼徳を誘い出す罠であり、頼徳は幕府に捕えられ、直訴の機会なく、暴徒筑波勢との野合と幕府への敵対行為の罪切腹が命じられ、宍戸松平家の改易が決定してしまいました。


また、悲憤した宍戸藩士7名も切腹し、さらに藩士27名が斬首、そして藩主の冤を雪ごうとした藩士22名が捕えられ合わせて宍戸藩士63名が亡くなったと言います。
一万石の小藩にとり、かなりの割合の藩士が犠牲となる悲劇となってしまったのです。

 

f:id:itopyonawanokami:20210515095752j:plain

笠間市内の養福寺の元治甲子之変殉難碑の裏にびっしりと殉難藩士の名が刻まれておりました。

合掌。

 

【松平頼徳の辞世の句】
思いきや 野田の案山子の竹の弓 引きもはなさで朽ち果てんとは

 

その後、改易された宍戸藩は、慶応4年2月、朝廷の計らいにより再び立藩され、廃藩置県まで存続しました。(終わり)