いとぴょん安房守の雑感録

歴史・時事など気ままに書いています

佐竹義堯公の決断 秋田戊辰戦争 秋田県秋田市

久保田城本丸に久保田藩最後の藩主・第12代佐竹義堯銅像が立っている。

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第12代藩主・佐竹義堯銅像

彼は、幕末の戊辰戦争奥羽越列藩同盟を離脱し新政府側に付くことを決断した。

このことは、会津、庄内など多くの東北諸藩にとっては裏切りとして認識され、秋田の人たちにとっても何か後ろめたい部分を感じさせてきた。

戊辰戦争は小説・映画でよく扱われる。大体において、会津、長岡、上野彰義隊箱館…。まずもって秋田が取り上げられることはない。出てくるとしたら、庄内藩鬼玄蕃の引き立て役か。秋田では特筆すべき人物がいなかった、秋田と東北諸藩とのわだかまり、後味の悪さがあるからなのだろうか。

 

なぜ久保田藩(秋田)は新政府についたのか?

 

関ヶ原で味方をせずに減転封させられた佐竹氏にとって徳川家に特別な恩義はないし、秋田の地は平田篤胤出生の地ということで尊王思想が厚い地域であった。そのことが背景として知られている。

奥羽越列藩同盟は当初会津・庄内の赦免嘆願、東北地方に戦争を持ち込ませないため東北諸藩一致協力しようとコンセプトがあり、比較的穏健なものであった。しかし、盟主・仙台藩の主導で軍事的攻守同盟化し、さらには輪王寺宮という帝を擁立し東北政権を樹立するという過激なものへと深化していった。これでは薩長との対決姿勢を深めるだけで、戦は必至であろう。佐竹氏にとっては戦を避けるというが真意であるし、戦うにしても戦国期から対立関係にあった仙台・伊達家の連中のもとで戦うなんぞできるかという心境もあったろうと思う。

明治維新戊辰戦争は政治権力闘争であると考えるならば、勝組に乗ずるのは当然であり、その結果、藩土が戦禍から守られ藩士・領民の命を救うことにあるのであれば、周囲から裏切りの汚名を受けようとも義堯のような決断はアリなのではと思う。

 

久保田藩の同盟離反は、南からは庄内藩、東南からは仙台藩、東からは盛岡藩の軍事介入を招いた。新政府軍の援軍得られない四面楚歌状態の久保田藩は連戦連敗を続ける。その結果、藩士だけでも300名以上の戦死者を出し、藩内の建物の半分以上が焼失するという戦禍に見舞われたという。

久保田藩が庄内・仙台・盛岡の軍を引き付けることで、新政府側にとっては東北戊辰戦争の早期終結に寄与したと考えられる。久保田藩は多くの犠牲を払いながらも戊辰戦争の勝者になった。しかし、戦後の秋田の惨状を見るに勝者・義堯が意図した結果ではなかっただろうと思う。彼の無念さを思わずにはいられなかったが、この無念さこそ小説・映画の題材になりそうだなと感じました。この辺りいろいろ調べてみたいとも思います。