志筑を攻めた【伊東甲子太郎の故郷】
江戸時代には出羽本堂より移封した本堂氏の陣屋となりました。
その後、陣屋跡は小学校となっておりましたが、小学校移転で校庭だった跡地に樹齢500年という大きなシイノキと古い石碑が残され、そして真新しい立派な顕彰碑が建てられています。
昨年、地元の有志により建立された伊東甲子太郎の顕彰碑です。
伊東甲子太郎は、天保6年、本堂氏の家臣鈴木家の長男・鈴木大蔵として誕生します。大蔵は青年期にに水戸学を学び、剣術は神道無念流、北辰一刀流を極め、江戸の伊東道場を任されます。
そして道場主の娘と結婚し、伊東大蔵を名乗ることになります。
その後、弟子の藤堂平助の誘いで新撰組に入隊し、入隊の年の干支が甲子であったことから「伊東甲子太郎」と改名しました。
新撰組の中では、幹部級の参謀を務めますが、深い見識と爽やかな人柄で京都、西日本の志士たちとの交流を活発にします。
勤王家である伊東は、次第に近藤勇、土方歳三などの幹部隊士と意見を異にすることが多くなります。
新撰組の内部崩壊を狙っていたんでしょうね。
その後、同志15名と離脱し、孝明天皇の御陵衛士となりますが、新撰組隊士に暗殺されてしまいました。
伊東は、朝廷に建白書を提出しています。
公家中心の新政府を作り、一和同心をスローガンに広く天下から人材を集め、国民皆兵、大開国、大強国を唱え、積極開国よる富国強兵策を示しています。
攘夷の水戸学を学んだ伊東だけに、この考えは意外に思うかもしれないですね。
「青天を衝け」で一橋家臣になった原市之進が攘夷の総本山・水戸藩出身なのに慶喜の影響で「開国派」になったという件がありましたが、これは正確ではありません。
「開国派」も究極の目的は外国の侵略を排除する(=攘夷)であるのだから、実は、日本人みんな攘夷の考えなんです。
何のために開国するのか?
攘夷するため。攘夷をするには、海外の最新技術を学ぶ!国を富ませる!軍備を整える!
開国して外国の言いなりになってさえいれば、海外の侵略から逃れられる保証はないわけで。
結局最後は、伊東の言うところの、開国して富国強兵して、海外侵略から国を守り独立を確保する(=攘夷する)に行きつくことになります。
さて、伊東甲子太郎ですが、昭和18年に地元の有志により伊東甲子太郎の顕彰碑建立が計画され、碑文の彫刻も終わりいざ建立という直前に碑石が盗難にあってしまい、建立できずにいました。
ようやく昨年建立にこぎつけたとのことです。
パンフレットも丁寧に用意されています。
おかげで色々なことを知ることができました。
ありがとうございました。
しかし、それにしても石碑を盗む人がいるんですね、新撰組の仕業なんでしょうか(笑)(終わり)