いとぴょん安房守の雑感録

歴史・時事など気ままに書いています

頼朝の佐竹討伐戦は、上総広常の、広常による、広常のための戦い?③

800年前の佐竹氏が存亡をかけて戦った西金砂山(現在の茨城県常陸太田市)に登る。

麓からは車道が現在では通っているが、当時は獣道と呼べる道すらなかっただろう。

西金砂神社の本殿が鎮座している山頂付近へは途中急な石段を登る。

それだけで息が上がる。

まるで攻め手の頼朝軍になったようだが、上から矢・石が飛んでこないだけマシだろうと自分に言い聞かせながら登る。

山頂付近から奥久慈の起伏に富んだ山並みを眺めていると、崖下は当時と変わらない風景のように思えてきた。

 

さて、上総広常の進言。

秀義の叔父に佐竹義季という人物がおり、智謀は優れているのだが強欲の男でもある。こちらから過分な恩賞を約束すればそれに目がくらみ、我が方に内応するであろう」

事前に配下の者に敵方の情報を入念に調べさせていたのだろう、さすがは坂東一の情報通である。居並ぶ諸将たちは声も出なかった。

 

早速、広常は西金砂山の義季の陣に飛んだ。

広常の話を聞いた義季は、広常の予想通り恩賞に眼が眩み、内応を約束、さらに秀義の本陣までの間道の道案内まで申し出た

広常は自らの手勢を率い、城裏手の間道から蔓や草木につかまりながら崖をよじ登り山頂にある本陣に辿り着き、秀義の本陣に奇襲を仕掛け落城のきっかけを作ったのであった。

一方の秀義は家人たちに守られながら何とか西金砂山から撤退、奥地の花園山(現茨城県北茨城市)まで何とか逃れることができた。

秀義の命はかろうじて助かったものの佐竹の所領・常陸奥七郡はほとんど全て失い。厳しい雌伏の時代を迎えることになる。

 

秀義を裏切った義季には戦後恩賞が約されていたが、結局反故にされた

おそらく、広常は義季との交渉を有利に進めるため頼朝に無断で過大な恩賞を提示したのだろう、戦後義季に詰め寄られてもそんな約束はしていないなどと平然とすっとぼけたのだろうと思われる。

 

西金砂山の戦いは、広常の調略によって勝利を収めたのだが、最初から強攻策でなく調略策を取っていれば、頼朝軍の損害は少なかっただろう。もっと早くに広常が進言していれば…

このあたりの広常の進言のタイミングは、もしかしたら自分をより高く売るための「社内政治」だったと言えるのかもしれない。

 

上総広常によって始まり、広常によって終わったと言っていい佐竹討伐戦は、広常の陰謀力の高さを証明し、周囲の警戒感を生んだ。今後の彼の人生を決めてしまった戦いでだったと言えると思う。(終わり)

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