いとぴょん安房守の雑感録

歴史・時事など気ままに書いています

頼朝の佐竹討伐戦は、上総広常の、広常による、広常のための戦い?②

高速道路常磐道石岡小美玉スマートICのほど近い、大矢橋

現在では新大矢橋という新しい橋が架かっているが、そのそばに佐竹義政の首塚がある。

説明板には、治承4年11月、上総広常による帰順勧告に応じた佐竹義政は、頼朝との会見に向かったが、この園部川にかかる大矢橋で上総広常に謀殺されたと記載されている…。

このようなだまし討ちが広常の一計であったのか?

 

太田城に着いた広常は長子・義政を説得した。

「佐殿は寛大な御方、今までのいきさつは水に流す。常陸介殿(佐竹)とは戦いたくはない」

義政は、この時代の人としては「超いい人」だった。広常の言を疑うことなく信じた。

とりあえず無益な戦を避けることができるのならと帰順要請を受けいれて頼朝の許に参上することに合意したのだが、広常によっておびき出された形となり惨殺されてしまったのである。

こうしたエグイやり方をする上総広常の思考としては、勝つためだったら手段を選ばないという思考。汚れ仕事もなんとも思わない。

ただ、こうした思考は源義経然りで何となく周り鎌倉武士たちから受け入れられない…北条義時はいろいろ学んでいくんでしょうなぁ~…あっとちょっと話が大河ドラマに行きました。

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広常の非情な策は、結果的には佐竹側に少なからぬ動揺を与えていた。

義政の配下の主だった将は大矢橋で広常に討たれるか、捕えられ、配下の兵たちも頼朝軍に降伏、逃亡する者が増えてきたのである。

こうした状況を受け、弟の秀義は、太田城は防衛に不向きと考え太田城を放棄、奥地の山岳・西金砂山に籠ることを決め、城壁を固め、要害を築き、頼朝軍との徹底抗戦の構えを見せたのである。

 

一方、頼朝は、西金砂山に下河辺行平、土肥実平和田義盛など数千の精鋭を派遣し、佐竹掃討を命じた。

 

西金砂山は要害険阻であった。

佐竹秀義は数千の頼朝軍を相手に山岳ゲリラ戦を展開し、一歩も引かない。

逆に攻め手の頼朝軍は、山頂から雨あられと降りそそぐ矢・石に打たれ苦戦を強いられ、狭小絶壁の道なき道に進退ならず、放つ矢も高所の敵には届かず、空しく矢をつがえて機を待つばかりであったという。

佐竹が構える砦は一人で千人分の働きを持っている」とは、土肥実平の頼朝への戦況報告である。

 

強攻以外の策を講じなければならない

早速軍議が開かれた。

重々しい雰囲気に包まれていたが、その空気を打ち破ったのは、またもや上総広常の進言であった。

広常のあらたな一手とは?(続く)

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